■この日のビートルズ 「ヨーコとの出会い」
■この日のビートルズ 「ヨーコとの出会い」

人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で
英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社
社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビー
トルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
ロック音楽で名声を得たイングランド北部出身の男性と、前衛芸術家で日本の裕福な銀行家の娘との出会い。しかし、ファンは必ずしも2人を祝福したわけではなかった。 お知らせ (C)2006 Lions Gate Films Inc. All Rights Reserved. 映画「PEACE BED アメリカ vs ジョン・レノン」は、2007年12月8日に日本で公開された。「ベトナム戦争や人種差別、世界にあふれる貧困や暴力と闘うために何ができるのか」。1969年、その思いをジョンとヨーコは大胆な方法で表現する。新婚旅行先のアムステルダムで「戦争をする代わりにベッドで過ごそう 髪を伸ばそう 平和になるまで」と、有名な「ベッド・イン」でメディアに登場。斬新な意見広告のさきがけともなったメッセージ“HAIR PEACE BED PEACE”は世間を驚かせ、若者たちを戦争反対へと動かす大きなムーブメントとなった。 
ロンドンのロバート・フレイザー・ギャラリーで、
ジョンの最初の美術展覧会が開かれた時の
ジョンとヨーコ=1968年7月7日
(Photo by Evening Standard/Getty Images)
1966年11月9日、ジョンは友人のジョン・ダンバーが経営するロンドンのインディカ画廊に現れた。その夜、オノ・ヨーコの個展「ヨーコ・オノによる、未完の絵画と彫刻」の初日前のプレビューが開かれていた。
学習院大を中退し、ニューヨークの名門女子大サラ・ローレンスで音楽を専攻したヨーコは、美術の分野でも活躍し、風変わりな芸術家としての名声を高めていた。黒い袋に人が押し込められていたりする、ちょっとしたハプニング・アートを見せる「驚嘆すべき女性」――。それが出会う前のジョンのヨーコに対する印象だった。
画廊のなかをぶらぶらしていたジョンは、入り口の近くにあった梯子(はしご)に目が行った。それは天井にぶら下がっている1枚の絵を見るための梯子で、その端に小さな虫眼鏡が鎖でぶら下がっていた。
絵は無地の白いキャンパスのように見えた。ジョンは梯子を登り、虫眼鏡をのぞくと、絵には小さな文字で「YES」と書いてあった。
「僕は救われたような気分になった。『NO』とか『F●●● YOU』とかの言葉じゃなくて『YES』だったんだから」
この作品がジョンの心を大きく揺さぶった。
ハンマーでピアノを粉々にしたり彫刻を壊したり。当時の前衛芸術を「アンチ主義の連続で退屈だった」と否定的だったジョンにとって、ヨーコの作品群は新鮮に映った。
1個のリンゴが200ポンドで売られていた。台の上に新鮮なリンゴが乗っていて、そのリンゴがやがて腐っていくのを見る料金だった。
「彼女のユーモアが僕を直撃した」
『釘(くぎ)をハンマーで打ち込め』と書いた掲示板があった。「僕は、やってもいいか」。ジョンはたずねた。ヨーコは断った。そこへ店の主人が出てきて、小さな声でヨーコとヒソヒソ話をしていた。
結局、ヨーコが「5シリング出してくれたらやってもいいわ」と言った。
機転の利いた返しこそ、ジョンの得意技だ。
「わかった。5シリング君にあげたつもりで、釘をハンマーに打ち込んだつもりになるよ」
「その時、本当の意味で2人は出会ったんだ。2人はお互いの目をしっかり見つめあった」(『プレイボーイ』1981年1月号)
ジョン26歳、ヨーコ33歳。
ヨーコはジョンに会ったとき、ビートルズが何者であるか知らなかったと主張していた。しかし、ヨーコはビートルズが誰なのかを十分に知っていた。
約2カ月前、ポールの自宅をヨーコが訪れた。ポールによれば、その日は米国の前衛音楽家ジョン・ケージの54歳の誕生日だったという。今年の文化功労者に選ばれた作曲家の一柳慧氏は、ヨーコの最初の夫である。一柳氏は米国留学中、ジョン・ケージの影響を強く受け、帰国後、五線譜によらない図形楽譜など音楽の概念を覆す実験に挑んだ。
ヨーコは、そのジョン・ケージにプレゼントするため、いろいろな作曲家の楽譜を手に入れたいのだと説明し、ジョンとポールの楽譜を求めた。
ポールはやんわりと断った。「そうだなあ、僕はいいけど、ジョンにも聞かなくちゃならないよ」
そして彼女は……ジョンの腕をとり、個展を案内して回った。ジョンが帰るときも連れて行ってとせがみ、彼の車に乗り込もうとしたくらいだった。
「ヨーコと出会った当初は、彼女に恋したことに気づかなかった。芸術上の協力者と考えていた」(『アンソロジー』より)
ジョンとヨーコが男女の仲になるのは、それから1年半後の68年5月20日とされる。2人が全裸になったジャケットで知られるアルバム「トゥ・ヴァージンズ」が1日がかりでジョンの自宅で録音された日だ。妻シンシアはイタリア旅行に出かけていた。
イングランド北部の封建的な風土で育ったジョンに対し、独立心の強いヨーコは、対等に女性の権利を主張した。ジョンはそこにひかれた。自分を育てたミミおばさんや自由奔放な母親ジュリアに共通する強さを感じたのだろう。ヨーコがジョンに近づいた動機は何であれ、2人の出会いは運命的だった。
ただ、不幸なことに、ジョンのパートナーがポールでなくなってしまったため、「終わりの始まり」と受け取られてしまっている。
ビートルズは68年5月30日から、「ホワイト・アルバム」の制作に入った。スタジオの中でもヨーコはジョンのそばを離れず、曲づくりにも口を挟むようになる。ヨーコが病気になるとスタジオに彼女のベッドが置かれた。ジョンはヨーコなしでいられなくなっていた。
「僕ら4人の関係は密接で、家族のようなものだったから、ヨーコの登場は緊張を生んだ。僕らは他人からの度を越した干渉が嫌いだった。ヨーコは他人だった」(リンゴ)
「ふたりの絆(きずな)が育つにつれ、ジョンはポールや他のメンバーとの絆を縮小していった。以前のような親密な4人組――私を入れて5人組――ではなくなっていた」(ジョージ・マーティン)
「ジョンがグループを離れたのは、ヨーコとの関係の障害になるものすべてを精算するためだったんだと思う。彼は、ビートルズという大きな重荷を背負っていた。その重荷とは僕らとかかわりを続けることだった」(ポール)
「解散の全責任をヨーコに負わせるはフェアじゃない。みんな、自分の道を歩き始めていた。ヨーコはその状況を促進させる触媒のようなものに過ぎなかった。だけど、当時は彼女がいることが煩わしかった」(ジョージ)
「僕は、ツアーを辞めて以来、ビートルズから離れることをずっと考えていたのに、怖くてできなかった。ヨーコに出会って彼女が好きになった時、こう思った。ヒット・レコード以上だ」(ジョン)
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